プロセキュート
【第10回】実施内容
テーマ : 『阿Q正伝』(魯迅)
実施日時: 2006年1月28日(土)14:00〜17:20
今月取り上げた書籍は魯迅の『阿Q正伝』です。
2006年最初の桂冠塾のテーマをどうしようかと前回参加したメンバーと話し合いました。
「今年は個々人に光があたる年になるのではないか」「虚業や集団で動く時代ではなく、派手ではないかもしれないが堅実に弛まず一歩一歩前進を続けていく」
そんな生き方を描いた作品を取り上げてみようということで『阿Q正伝』にしてみました。
奇しくもライブドアの顛末が満天下に晒されつつあります。虚業がもてはやされる時代などありえないのだと感じる今年の年頭にあたり、虐げられて生き、そして死んでいった社会底辺の庶民の姿に一人一人の生き方を考えてみました。
討議は深みを増して3時間余りに達しました。

「阿Q正伝」が収められている小説集『吶喊(とっかん)』の中に収録されている「自序」に魯迅が執筆活動に身を投じた心境が端的に書かれていますのであわせてお読み下さい。
またひとつ前に書かれた「狂人日記」も一貫したモチーフが貫かれていることはほぼ間違いないでしょう。

ある桂冠詩人が数日前に書かれた提言の中で魯迅と夏目漱石を比較した中野重治の視点を紹介していました。漱石との決定的な違いは何か?それは進んで悪と戦おうと一点にある。

それは魯迅作「故郷」の最後の一節に端的にあらわれていると私は感じる。
「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(竹内好訳より)


 http://prosecute.way-nifty.com/blog/2006/01/10_ddd7.html

『阿Q正伝』物語のあらましとディスカッションの視点
1921年12月〜1922年2月に新聞『晨報』の別刷りに連載として発表。
1923年発刊の小説集『吶喊(とっかん)』に収録。

第一章 序
1) 伝記の呼び名
2) 阿Qの姓
3) 阿Qの名
4) 阿Qの原籍
第二章 勝利の記録
1) 阿Qの行状
2) 阿Qの精神的勝利法
3) 賭博で一度だけの勝ち
第三章 続勝利の記録
1) 趙旦那に殴られて有名になる
2) ひげの禿の王との生涯最大の屈辱事件
3) 銭旦那の長男・にせ毛唐 生涯第二の屈辱事件
4) 若い尼にちょっかいを出す
第四章 恋愛の悲劇
1) 呉媽に言い寄って事件になる
2) 謝罪して5項目を履行する
第五章 生活問題
1) 回りの対応が変化する
2) 小Dとの闘い
3) 生活に困って畑で大根を盗む
4) 城内へ行く
第六章 中興から末路まで
1) ひと財産儲けて再び未荘に姿をあらわす
2) 回りの対応が変化する
3) 二度と盗みに行けない盗人
第七章 革命
1) 挙人旦那の船が趙家に着く
2) 革命も悪くないな
3) 革命が終わる
第八章 禁じられた革命
1) 辮髪を巻き上げる
2) 銭家のにせ毛唐=西洋先生に追い払われる
3) 趙家が襲われる
第九章 大団円
1) 盗賊の一味として捕らえられる
2) 取調べを受ける
3) うまくマルが書けない
4) 処刑場に連れて行かれる
5) 眼たちが彼の魂にかみつく
6) 事件後の影響と世論
魯迅【ろじん】の生涯
【1】生誕から南京での生活

1881年9月25日生まれ
本名:周樹人
生誕地:紹興
祖父・周介孚:一族で初めて進士に登用される。その後息子・伯宣を合格させようと知人の試験官に便宜を依頼したことが発覚し投獄。
母・魯瑞:意志の強い女性。夫を助けて一家を支え、魯迅に勉学と登用の道を進ませようとする。
父・周伯宣:科挙の第一関門・郷試に合格できなかった。魯迅15歳のとき結核で逝去。享年37歳。

父親の死後魯迅一家は急速に没落。
魯迅は親戚の家に預けられ、16歳の時、南京の江南水師学堂に入学するが一年で退学。江南陸師学堂附設礦路学堂へ入学。
地質学や鉱物学、西洋医学を知り大きな影響を受ける。

【2】日本留学時代

礦路学堂を卒業後1902年3月に日本へ留学。
中国人留学生のための予備校・弘文学院に入学。
入学一年後に弘文学院でストライキが発生。代表の一人として学校と交渉にあたる。
清朝支配から解放の意思表示として辮髪を切る。
留学生間で各種雑誌が相次いで創刊。浙江同郷会の発行する『浙江潮』に「中国地質略論」などを発表。
1904年弘文学院を卒業、仙台医学専門学校に入学。
学期末試験に合格し2年に進級。試験問題を不正に教えてられたとの中傷誹謗を受ける。これは藤野教授にかわいがられた魯迅へのねたみとの見方が濃厚。
細菌学の講義の時間調整に映写された日露戦争のスライドでロシア軍スパイとして日本軍に捕らえられた清国人が銃殺される場面を目の当たりにする。医者となって病気を癒すよりも民族の精神を改造することが重要との考えに至り、精神の改造に役立つものとして文芸活動に向かう決意をする。
仙台での忘れえぬ思い出は藤野厳九郎教授である。魯迅は藤野先生の写真を常に座右に置いてその恩を生涯忘れなかった。
1906年3月仙台を去り一時帰国。
まもなく東京に戻り文芸活動に打ち込む。

【3】中国帰国

1907年7月帰国。数々の学校で教鞭をとるがすぐに辞職。
1911年辛亥革命起こる。
初級師範学堂の校長に任命されるが辞任。南京政府教育部に勤務。
権力を握った袁世凱は教育部を厳しく監視、教育改革を目指した魯迅は活動を制限される。
1918年4月に陳独秀発刊『新青年』に「狂人日記」を執筆、創作活動を再開。「故郷」(1921年1月執筆)「阿Q正伝」(1921年12月)等を発表。

生活の為に多くの学校に勤務。北京女子師範大学ではデモ参加を禁止した大学と学生が対立、魯迅は学生を支持、強制排除を阻止する校務維持会の総務主任として大学側と対峙し論陣を張った。
未名社を結成。ロシア・ソビエト文学を精力的に紹介。
1926年3月、国民軍と奉天軍閥で紛争勃発、日本軍が介入。
段祺瑞政府に最後通牒といわれる「花なきバラ」事件が発生。
天安門前での抗議集会で衛兵の攻撃により多数の市民が死亡。
魯迅に逮捕状が出され逃亡生活へ。
4月、張作霖内閣誕生。しかし反動政治はさらに強まる。
8月、厦門大学の文科教授、広州に移り中山大学の文学系主任・教務主任を勤務。
蒋介石の4.1クーデターを機にして反共弾圧の起こる。魯迅が勤務する中山大学で40余人の学生が逮捕、学生の救出に奔走するが賛同を得られず職を辞任。
その後は『野草』等の編纂に携わる。

【4】上海での最後

1927年10月、上海に転居。
共産党指導下の中国革命互済会に入会。
1930年2月、中国自由運動大同盟、3月に中国左翼作家連盟の発起人となり国民党に弾圧される。
1931年1月、魯迅と親しい作家達が検挙。魯迅は救出に尽力するが柔石ら23名は処刑される。
1931年9月18日、満州事変。
日本による弾圧が強まる。魯迅は抗日運動に身を投じる。
左連を中核とする新しい組織作りを画策するがコミンテルンによって統一戦線が結成、左連は解散。
1936年6月、中国文芸家協会が発足。スローガンをめぐり対立。
魯迅は病を患い闘病生活に。一時健康を取り戻すが1936年10月18日未明に逝去。享年56歳。
葬儀は民衆葬で行なわれた。

魯迅の死後、その精神は多くの者達に受け継がれ、民族革命の大きな原動力となる。
魯迅は文学を通じて中国の新たなる時代の扉を開いた。

【5】ペンネーム『魯迅』の由来

日本留学中に「迅行」というペンネームを使用。
1907年作1908年8月発表の「文化偏至論」、1908年作同年12月発表の「破悪声論」。
母親の姓の「魯」とこの「迅」の字を組み合わせて「魯鈍にして迅速」という面白い名前を作った(山田敬三)。
魯迅の友人だった許寿裳がその著書『亡友魯迅印象記』で解説。
自著『魯迅的生活』に「取愚魯而迅速之意」とあり。
ディスカッションの主なテーマ:
・魯迅の人物像
・中国における民衆革命の歴史
・阿Qに見出す庶民の実態   他
【桂冠塾】トップに戻る
Copyright (C) 2005 PROSECUTE All Rights Reserved.