多くの方が学生時代に一度は耳にした社会学者の名前の一人がマックス・ヴェーバーだと思います。従来は経済学の一部のように思われていた学問分野を独立した社会学としての立場を確立した世界的な社会学者といってよいと思います。
マックス・ヴェーバーの代表作として『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があることからもわかるように、ヴェーバーの社会的考察の視点は、近代文明の発展の軌跡を人間の信仰観と合理性追求の関係性から解明しようとした側面があります。
そうした視点の展開の中で行なわれた講演として「職業としての学問」「職業としての政治」があったわけです。
その講演は1919年1月、ミュンヘンの自由学生同盟の学生達のために行なった公開講演でした。時代は第1次世界大戦にドイツが敗戦した直後。愛国者でもあったヴェーバーは個人的な衝撃もうけていましたが、それにもまして心を痛めていたのは、この敗戦を「神の審判」のごとく受取り、自虐的な敗者の負い目を感じつつ、いつか訪れるであろう「至福千年」の理想に心酔しようとしている一部の知識人達の言動であったと言われています。そうした知識人の多くがヴェーバーの親しい先輩、友人、教え子達であったため、彼らの考えを糺して現在の社会状況の本質を語ろうという意図があったと推察することができます。
当時のドイツの知識人が思っていた思想は次のようなものだったといいます。
”敗戦を喫したドイツ国民の我々は理想を実現する民であり、それを滅ぼした敵国は悪の枢軸であり世界は悪に染まっている。だから我々は必ず神の力によって世界を改変して千年王国を築くことができる。”
戦争と敗戦の本質は、果たしてそのようなものだったのでしょうか。
ヴェーバーは、政治の本質的属性が権力であり、国家相互の間であれ国家内部においてであれ、権力の分け前にあずかり権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力が政治であると定義して自説を展開します。
当時の政治の現状を分析しつつ、講演の後半では政治と個人的倫理についての考察へとテーマが推移していきます。
私達の暮らす日本においても政治の行く末が危ぶまれる状況が久しく続いています。今年も7月に国政選挙が予定されており、有権者である私たち一人一人の判断が求められているわけですが、果たして何を基準に、どのような判断を下してくことが私達の生活、そして未来の世代にとって、よりよき決断になるのでしょうか。
そもそも本質的に政治とは何なのか、またどうあるべきなのか。
政治を職業とする人達とはどうあるべきか、またどのような人が相応しいのか。
今まで自分自身が当然のように思っていた平和や戦争に関しての価値観と異なる主張を堂々と展開する政治家が現れ始めた昨今の政治状況を目の当たりにするにつけ、この点を思索し議論することが大いに意義と価値があると思う今日この頃です。
ヴェーバーと聞いて「なんだか難しそうだなぁ」と思う方もおられるかもしれませんが(^_^;)文庫版で100ページほどの短い講演集ですので是非挑戦してみていただきたいと思う一冊です。
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